6a0120a6885bf1970b0133f0bb32e9970b-800wi[1] ―60代までの歩み―

723日は、フミ、ゴロ合わせで、手紙の日であった。

大阪在住の知人からのメール。

その気遣いに、「ありがたい」と思った。

手紙を書く、それは積極的な能動的行為であり、受けた側には感謝の気持ちがもたらされるものだ。

思えば、あのころの私はよく手紙を書いていた。

返事が気になって、家のポストを何度も見に行く。

高校生のころは、ペンフレンドが北海道、和歌山県、愛媛県にいた。

詩を雑誌に投稿して、それが縁になって文通が始まった。

また、大学生になったら、先輩が毎日のように手紙を寄こした。

「昨夜、君と話していて、言い忘れたことがあるので、手紙に記す」

先輩はバイトが忙しくなり、大学へ顔出さない日が増えたので、アパートへ訪ねて行く。

茶菓子を私が持参して、お茶を飲んで歓談した。

二人は当時、酒が飲めなかったのだ。

また、社会人になって2年。

学生気分が抜けきれない時期があり、後輩たちに大学へ会いに行く。

そして、後輩に手紙を書き、学生運動を無責任に煽っていた時期もある。

だが、過激になる一方で、文通は途絶えた。

太宰治の命日で、三鷹の墓地へ行く。

その日は、日赤武蔵野病院の総看護婦長に取材した日であった。

太宰の墓の前に後輩の女性たちが来ていた。

「卒論、書いているか?」

4年生になった後輩の一人が、「順調です」と笑顔を見せた。

「先輩、詩は書いてますか?」

「詩は、止めた」

「止めた? 本当ですか?!」

怪訝な顔をされた。

私は都立駒込病院の取材の帰りに染井の墓地へ足を向けた。

その日は、芥川龍之介の命日であった。

法要が終わっていた。

墓地に大きな帽子被った女性がいた。

私が芥川の墓石にカメラを向ける、女性が墓石に手を伸ばした。

そこに、置かれた紙片を手にしたのだ。

「失礼しました。私の俳句です」と相手が言う。

「俳句?」

私はカメラのファインダーから目を離し相手を注視した。

「先ほど、俳句が浮かんで、書いてみたのです」

紙片をデニムのポケットにしまった。

私は3カット、芥川の墓をカメラに収めた。100_2840

「写真、送っていただけないでしょうか?」

「いいですよ」

その人は、手帳を破り住所を記した紙片を差し出した。

「学生ですか?」

「浪人です。東大が紛争で受けられず、来年は中央の法科を受験する予定です」

駒込駅へ向かいながら、芥川について二人は想い想いのことをしゃべっていた。

それから文通が始まったのだった。

私は25歳、相手は19歳であった。

 

<参考>

東大紛争は、1968年に発生した学生運動の一環として発生した暴動で、東京大学の学生が起こし、東大の全共闘を中心に学生の約半数がこの運動に参加した。

一方、日本民主青年同盟などを中心とした、「日共系」といわれる全共闘と敵対していた学生らも、自分たちの運動を「東大闘争」と称した。

文部省(当時)が、大学側の意向を無視し1969年度の東大入試中止を発表する。

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