7月23日は、フミ、ゴロ合わせで、手紙の日であった。
大阪在住の知人からのメール。
その気遣いに、「ありがたい」と思った。
手紙を書く、それは積極的な能動的行為であり、受けた側には感謝の気持ちがもたらされるものだ。
思えば、あのころの私はよく手紙を書いていた。
返事が気になって、家のポストを何度も見に行く。
高校生のころは、ペンフレンドが北海道、和歌山県、愛媛県にいた。
詩を雑誌に投稿して、それが縁になって文通が始まった。
また、大学生になったら、先輩が毎日のように手紙を寄こした。
「昨夜、君と話していて、言い忘れたことがあるので、手紙に記す」
先輩はバイトが忙しくなり、大学へ顔出さない日が増えたので、アパートへ訪ねて行く。
茶菓子を私が持参して、お茶を飲んで歓談した。
二人は当時、酒が飲めなかったのだ。
また、社会人になって2年。
学生気分が抜けきれない時期があり、後輩たちに大学へ会いに行く。
そして、後輩に手紙を書き、学生運動を無責任に煽っていた時期もある。
だが、過激になる一方で、文通は途絶えた。
太宰治の命日で、三鷹の墓地へ行く。
その日は、日赤武蔵野病院の総看護婦長に取材した日であった。
太宰の墓の前に後輩の女性たちが来ていた。
「卒論、書いているか?」
4年生になった後輩の一人が、「順調です」と笑顔を見せた。
「先輩、詩は書いてますか?」
「詩は、止めた」
「止めた? 本当ですか?!」
怪訝な顔をされた。
私は都立駒込病院の取材の帰りに染井の墓地へ足を向けた。
その日は、芥川龍之介の命日であった。
法要が終わっていた。
墓地に大きな帽子被った女性がいた。
私が芥川の墓石にカメラを向ける、女性が墓石に手を伸ばした。
そこに、置かれた紙片を手にしたのだ。
「失礼しました。私の俳句です」と相手が言う。
「俳句?」
私はカメラのファインダーから目を離し相手を注視した。
「先ほど、俳句が浮かんで、書いてみたのです」
紙片をデニムのポケットにしまった。
「写真、送っていただけないでしょうか?」
「いいですよ」
その人は、手帳を破り住所を記した紙片を差し出した。
「学生ですか?」
「浪人です。東大が紛争で受けられず、来年は中央の法科を受験する予定です」
駒込駅へ向かいながら、芥川について二人は想い想いのことをしゃべっていた。
それから文通が始まったのだった。
私は25歳、相手は19歳であった。
<参考>
東大紛争は、1968年に発生した学生運動の一環として発生した暴動で、東京大学の学生が起こし、東大の全共闘を中心に学生の約半数がこの運動に参加した。
一方、日本民主青年同盟などを中心とした、「日共系」といわれる全共闘と敵対していた学生らも、自分たちの運動を「東大闘争」と称した。
文部省(当時)が、大学側の意向を無視し1969年度の東大入試中止を発表する。
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